新聞に載った
笹小屋再生プロジェクトが今日(10.1)の上毛新聞に掲載されたようだ。
一読して、笹小屋修復の工程や、行った行事があまり的確に表現されていないことに
ひっかかりを持ってしまった。
「骨組みに組み込んでいくのであって、古い笹に差し込んでいくのではないからね?」「小屋の中でお茶を飲んだのは、囲炉裏で火を起こして、周りで拾った薪を活用するレクリエーションとしてだからね?」
細かいところが気になる質なのである。
字数制限の中で、表面的になぞった文章の情報価値が高くないことなど分かっている。そんなことは文字通り些末なことである。
しかし、どうも自分は、笹小屋再生プロジェクト自体が「簡略化された情報」になったことに対して、ガックリきてしまったらしい。自分がやろうとしたことと正反対のやり方で取り扱われ、なんだか無力感を覚えてしまったのだ。
笹小屋は、もう途絶えかけている文化だ。それを絶やさないように、「その場で目の当たりにしたこと」を記憶して、継承してもらうために行った。
「ここに来て、よく見て、やってみて、初めて分かる」そういうことの大切さを、再確認して実践する取り組みだった。
駆けつけてくれた地元のおじさん達の手仕事を見れば、たとえ見よう見まねでも、作る気があれば作ってみることができる。見たことがなければできない事はとても多いから、まず見て、やってみることができる機会を作った。
きっと、この記事を読んで「何をしていたのか」をイメージできた村人はほとんどいないと思う。「おらが村が載ってるが、なにやってんだべ?」というわからなさから、「他人事」感が無意識に生成されていたら…残念だと思う。
ただしそこで悲観的にならないようにする。なんとなくガックリはきたものの、それなら次はやり方を考えればいい。今回できなかったことをやればいい。
次は…小学生を取り込んで、子どもの口づてに知ってもらおう。