熊鈴日記

はじめたばかりの狩猟のことをメインに、山で生きるさまざまなこと

猟犬探し1(妄想編)

さて、昨日はわな猟に際する急ぎの準備に関して記した。急ぎと言っても二ヶ月ある。慌てるようなことはないものの、目先の事ばかりを考えていて行き詰まってしまうのはよろしくない。

急ぎではないが、いずれやってみたいことに関しても考えておきたい。

 

数年先になると踏んでいるけれど、猟犬を用いての狩猟の準備をしておかなければならないだろう。

地元のハンター諸氏は、犬を使わない人が多い。たいてい犬を連れているのは土地勘の無い(都会から趣味でやってくる)外部ハンターで、犬の鼻や眼に頼って猟をすることが多いようだ。

地元の人々は長年の知恵とカンで獣道を見分けて上手にわなをかけるし、数キロ先の猪を撃つ。こんな芸当ができるのは、子どもの頃からひたすらその野山を駆けめぐった積み重ねがあるからで、哀しいことに自分にはその経験が圧倒的に足りない。

鉄砲打ちだった私のジイサマは、沢ガニ取りや山菜採りには同行させてくれたけれど、決まった裏山の決まった道の中でしか動かなかった。やはり年だったのだと思う。

まあそんな訳で、猟をするには色々な経験が足りなすぎる上に、少し可哀相なくらいの方向音痴だし、視力はよくないし…という自分の低能な能力を補う面でも、犬の感覚気管と帰巣本能に助けを借りて猟を行うことが必須であるような気がしてならないのだ。

 

となると。銃猟免許を取り、本格的に銃猟を行うようになるまでに犬を育てておかなければならない。

引っ越したらすぐにでも犬を探して、一緒に暮らすんだ!と考えたら、もうワクワクして眠れない夜を過ごしてしまった。

「狩猟犬は日本犬がメインだけど、大型の外国犬をしつけて狩猟をさせてみたいのもあるな…うはっボルゾイかわええ!」「室内飼いをしたいけど、もし自分が民宿をやるなら犬部屋と客部屋の共存はできないのかな…」とか。妄想するだけならタダ!という痴態をずっと繰り広げている。狩猟に対してそこまで惹かれる自分に驚くほど、様々な楽しみがいつも頭の中にあって、生きる活力になっているのだ。

 

正直にいうと、自分は動物の飼育、特に愛玩に対して強い抵抗を感じていた。だから、本気で犬を飼うことを検討するなんて、とびきり予想外の場外ホームラン。

今までは、ペットを飼うことに対して「人間の傲慢で他の生物の自由を奪っている」という構図が先立っていて、自分が動物を飼育するイメージが湧いたことがなかった。

なぜそんな穿った見方になってしまうのか自分でもよく分かっていなかったのだが、狩猟犬を飼いたい!と思った途端に湧き出した映像の鮮やかさに圧倒されて、ついにその謎が解けてしまった。

 

これまで「餌を与えてただ所有する家畜として飼われてきたペット」ばかりに出会ってきたことが、ネガティブなイメージを増幅させていたのだ。

檻に閉じこめられた犬、散歩にも連れて行かれず、しつけも適当、誰も話しかけない犬…。そんな悲しい動物が身近にいすぎて、そういうものだと思いこんでしまったのだと目から鱗が落ちた。そんなものは愛玩じゃなくて虐待だ。

今なら分かる。

 

私は狩猟のために犬を飼う。しかし、それは使役のため一辺倒ではない。狩猟を手伝ってくれる犬を大事に育て、犬にも美味しい獣の肉を食べさせてやりたい。ひとつ犬の力を借りて、一緒に美味しい山肉を食べようじゃないか!という「同胞意識」「家族意識」が芽生るやいなや、どう可愛がってやろうか考えて止まらなくなってしまった。まだ飼い始めてもいないのに、ひたすら愛おしく思えた。

 

妄想だけでは気が済まないので、先日、里へ降りたついでにペットショップへでかけてみた。「愛玩やショーのために交配されてきた一般流通の犬たちは、温厚で狩りに向かないよ!」とのこと。そうだろうな。やはり猟友会経由で猟犬を飼育しているハンターに教えを請わねばなるまい。

 

猟犬に関する収穫はなかったが、その店のオーナー夫妻と、薪ストーブや囲炉裏の話でいたく盛り上がってしまったのがたまらない。その話は、また膨らませてから別の機会に。

こと狩猟に関することで奔走しているとき、必ず良い出会いに恵まれる出来事が続いている。

犬との素晴らしい出会いも、きっと叶えたい。

(c) bearbell 2013